リドヴォーでシャンパーニュ。

ちょっと珍しい病気になってしまったコピーライターの日記です。

年末恒例の喪中はがきを見て、まだまだ死んでる場合じゃないぞーと自分に喝を入れる師走の一日

筆力高めの闘病ブログにやられてしまい・・・

 

昨日は久しぶりに、一日中うつうつとしていた。

きっかけは、ある闘病ブログをうっかり読んでしまったこと。

 

スキルス性の胃がんで夫を亡くした女性の日記だったが、

たまたま目に入ったのが、壮絶な最後の日を描いた内容だった。

しかしこの方、文章力、表現力、描写力が高いため変に引き込まれてしまう。

おかげでまんまと、感情を持って行かれてしまったというわけ。

 

がんと一口に言っても実に多種多様で、症状も進行も治療法もさまざま。

もちろん、寛解する方もいれば、死に至る方もいる。

痛みや苦しみも人それぞれだろう。

ただ、看取る方のトラウマになるような

壮絶な最期を遂げる方もいると聞く。

 

多発性骨髄腫という血液のがんにかかったカメラマン、

幡野広志さんはブログの中で

「その可能性が高いなら、スイスでの安楽死を選ぶ」と書いている。

 

がんにかかることで人は試される?

 

がんという病気は、罹患した本人はもちろん、

周りの人たちをも試すところがある。

幡野さんも、告知をきっかけに実のお母さんと距離を置くことにしたそうだ。

(自分の息子が“治る見込みのないがん”を告知されたときの

お母さんの態度は、かなりひどい)

 

実は私も、昔から母との間にはもやもやとした感情を抱え続けてきた。

病気の発覚をきっかけに、一度は消化したつもりだった感情を

反芻してしまうことがあり、そのたびに憂鬱な気分になってしまう。

 

そんな私の錨になっているのは、やはり娘の存在。

母として、というよりも人として、

凜とした生きざま(もしくは死にざま)を見せたいという見栄にも似た何かが、

淡々と日常をこなすための抑止力になっているような気がする。

 

さて、12月。

今年もちらほらと、喪中はがきが届き始めた。

亡くなったのは、概ね私たちの親世代。

まだまだ死んでる場合じゃないぞ!と、自分に喝を入れる。